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ヘルスケアICTによる産業振興および健康増進
田村 桂一
ーまず初めに、少子高齢化が進みヘルスケアICTに関する関心が高まっている中で、経済産業省としては多面的に支援が可能かと思いますが、これまで行ってきた取り組みについて、改めてお聞きかせ下さい。
入江 奨
ヘルスケアICT分野は大変多岐にわたります。経産省としては、ICTの技術をいかに医療などの分野に活用してもらい、安全に配慮しながら活用してもらったうえで、どのように価値を高めていくか、ヘルスケアも含めて健康医療の分野でどうイノベーションを起こしていくかを重視し、取り組んでいます。
医療機器の高度化や製薬におけるより効率的な新薬創出などについては、これまでもイノベーションは起きていました。具体的には、例えば今あるMRIや内視鏡といった医療機器の高度化やステントについても、今実際に現場で実施されている手術や処方の仕方についてよりその効果を上げていくというものでしたが、実際にICTの技術が使える分野は必ずしもそういうものばかりではないと思っています。
生活習慣病や認知症などの慢性疾患の割合が日本で増えていく中で、医師が対面で検査値を見て処方や指導をするだけで治療が完結しなくなってきました。治療の在り方が生活空間まで広がっているので従来の治療だけでは足りません。医療機器や製薬の高度化のような単なる現場の上乗せではなく、プロセス自体を変えるようなイノベーションも必要で、ICTを使うことでそれが起こってくると思います。今まではそのようなプロセス自体を変えるイノベーションはなかなかできませんでした。
実際に糖尿病の先生に話を伺うと、患者さんの普段の生活が自己申告でしか分からないことが治療のハードルになっていると聞きます。そのような従来の治療のプロセスでは対処しきれなかったところも、ICTの技術の進歩によって、対処できるようになるのではないかと経産省としては考えています。
その一環として、2016年度にIoTを活用して糖尿病の治療成績を向上させようという取り組みを始めました。取り組み内容は、糖尿病軽症者にウェアラブル端末を渡し、セルフモニタリングを依頼します。そこから得られたデータを医師や保健師、栄養士などの専門家と共有することで、必要なタイミングで介入をし、例えば、最近少し太り気味ではないですかといったことをご本人にお伝えし注意を促します。実際に栄養士がチャットで介入する場合もありますし、アプリを使ってアルゴリズムに則ってメッセージを出す場合もあります。こうした介入のプロセスが糖尿病の治療に対して実際に効果があるのかを検証する事業を2016年度に実施しました。
その結果を受けて、2017年度に国立研究開発法人 日本医療研究開発機構(AMED: Japan Agency for Medical Research and Development)の事業として本格的な臨床研究を実施することになりました。前年度に実施した先行研究の結果も踏まえて、より大規模かつ長期間でということで、2,000名程度の糖尿病軽症者を対象とした3年間に渡る大規模な臨床試験を実施しています。こうした規模、期間で実施することで、糖尿病の治療に対して効果があることを医学的に検証しようとしています。
このような方法で、ICTを使った取り組みが医師や患者さんにとって本当にプラスになっているのかをしっかり検証しようとしてきました。ICTの取り組みは、他の産業も含めてICTを導入すること自体が良いとなってしまいがちです。たしかに、それは強引にでも始めることできっかけになる面はありますが、やはり医師が患者に対し医療サービスを提供している医療分野は、少しずつ変えていく必要があるので、しっかりエビデンスに基づいて進めていくことが重要だと考えています。
佐藤 大介
ー医療機器やバイオテクノロジー、生物素材、医薬品は、ある種昔から、過去の連続、改善の方法で、技術としては確立している一方で、ICTはまだ効果検証の段階なので促進するためのアプローチが違うということですね。
入江 奨
そうですね、アプローチが違います。医療機器や製薬技術を高度化するようなイノベーションは引き続き行っていかなければなりません。それは既に色々な企業に取り組んでもらっています。一方で、ICTの導入は、医療のプロセスそのものを変えてしまうものであり、今まで知りえなかったデータが出てきた際に、それをどう医療に役立てられるのか完全には見通しが立ちません。つまり、まだ医師自身もよく分からない段階なので、政府としてはエビデンスを構築するプロセスをしっかりと支援し、もし効果があると分かったら、様々なプレイヤーの参入を促すことを考えています。医師からも信頼されるサービスをどのように作っていくかが一番重要だと思っています。
田村 桂一
ー2016年度から実証事業を始められているということですが、そもそもICTが先にありきだったのでしょうか、それとも生活環境への介入が先にありきだったのでしょうか。
入江 奨
当時は着任前だったのですが、ICTが先にあったのではないかと思います。第四次産業革命によって、世の中で様々な破壊的イノベーションを起こしていく中で、医療分野はこれまでに積み上げてきたものが非常に大きな分野なので、例えばICTを利用した買い物の仕方のように、すぐに大きく変わっていくということは難しい部分はありますが、そうした中でも新たな技術を取り入れていくことが世の中を良くしていく、Society 5.0に近づいていくということがあったと思います。IoTやICTを医療の現場で使ってもらうには何が必要かを経産省で考えたときに、医師や患者さんにどのようなメリットが生まれるかということを考えなければなりません。
例えば、糖尿病の専門医の先生が、診療と診療の間、つまり、医師の目には見えない日常の生活をどうフォローするかが難しいと言っていました。診療の中で、食事のこと等について一生懸命指導しても、診療と診療のあいだで介入できないために、次の診療の際には状態が悪化しているというケースも見受けられるようです。その診療と診療の間に、遠隔や自動といった手段を用いて介入していけるようになれば良いのではないかということを糖尿病の先生が言っていました。そのような医師たちの意見をヒントに、ICTやIoTなどの第四次産業革命のイノベーションを医療に導入していって、医師にとってのメリットをしっかり示していくことがヘルスケアICT産業における経産省の当初からのコンセプトです。
佐藤 大介
ー診療と診療の間におけるヘルスケアのアプローチは、どこもやっていなかったと思いますが、こういったところをいかに活用できるかというところは、経産省の役割の1つではないかとお話をうかがって理解できた気がします。
入江 奨
そのためには、従来の医療機器メーカーなどが目指してきたイノベーションとは別の方向なので、スタートアップなどのベンチャー企業や、既存の大きいICT企業の参入がとても重要だと思っています。
ただ、これまでは研究段階なので、あまり民間の事業者の巻き込みについては、このAMED事業に限って言えばそこまで深くは考えていませんでした。実際にユーザーとなる人達をどうやって巻き込んでいこうかという話をしていました。
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事業者の巻き込みは、2018年1月くらいにヘルスケアIT研究会を立ち上げたのを皮切りに取り組み始めました。目的は、今取り組んでいる糖尿病の実証事業などによってエビデンスが構築された後に、そこに入ってくる自分たちの機器やサービスを積極的に使ってもらおうとする事業者を日本でもしっかり育てていくというものです。
アメリカやヨーロッパに比べると、日本のベンチャーの投資額は、アメリカの100分の1、ヨーロッパと中国の15分の1といったデータもあるように小さいのです。アメリカより少ないというのは、予想はつくかと思います。中国より少ないのも、個人情報保護法等の関係もあるのである程度は仕方がない気がします。ただヨーロッパに関しては、個人情報保護法が厳しい上に医療へのレギュレーションもアメリカに比べると日本に近いにも関わらず、ヨーロッパの方がベンチャー投資は大きく進んでいます。
日本のヘルスケアICT産業の育成もきちんと実施していかなければ、せっかく医療分野でICTが導入されても、それを全部外国からのサービスが食い尽くしてしまうかもしれません。その結果、国内の医師や患者さんのニーズが全く反映されていないサービスがとりあえず日本の市場に参入してきてしまうことを恐れています。
そのような背景で、日本の企業がどうすればヘルスケアICTの分野での投資を進めてくれるのかという課題をヘルスケアIT研究会で検討しました。その時のメンバーには、産業界からはもちろんですが、日本医師会や医学研究者など医療関係者の人に多めに入っていただき、特に医療提供者側がどういった考えを持っているのかをしっかり理解しようというコンセプトで研究会を開いていました。
その中で出てきたキーワードの1つに、相互理解があります。医療現場で使えるようなICTを研究開発する際に、企業側と医療側の相互理解をもっと深めていく必要があると思います。医療側からすると、研究開発をしようと提案してきたICT企業がこの前までゲームを作っていた会社だとなると医療には理解がないように映ってしまい、その企業をすぐには信用できない状況があります。一方で企業側からすると、医療側はいたずらにデータの共有を渋っているように映ってしまう。そのようにして、お互い歩み寄ろうとしているにも関わらずうまくいっていないケースが多いです。
その溝を埋めるために企業側としては、医療分野のイノベーションのためにデータを使うということを医療側に明確に示さなければなりません。一方で医療側としては、医師等が守らなければならない様々なルールがあることを、企業側にしっかり認識してもらわなければなりません。ここでのルールは、例えば医師法などの法律や、倫理に関するガイドライン、ヘルシンキ宣言のような国際宣言です。経産省としては、これらの医療側と企業側が歩み寄るプロセスを支援していかなければいけないと考えています。
田村 桂一
ーおっしゃる通り、ベンチャー業界でも各企業が苦労しているのは、医療側にデータ利用の目的や様々なルールへの理解をどう示していくかということです。また、そのプロセスで困ったときにどこに頼ればいいのか分からないというような声も耳にします。こうした状況も踏まえて医療側と企業側の相互理解の促進というのはどれくらいのスピード感をもって実施していくイメージなのでしょうか。
入江 奨
まずこの相互理解の促進は、我々経産省が何か制度を作ればそれで解決するという課題ではありません。そこが難しいところであり、この課題に取り組む上で大変重要なところです。
そこで我々が今取り組もうと考えているのは、成功事例の創出です。成功事例の創出は産業政策を進めていく中でよく指摘されます。成功事例の創出の一環として経産省が取り組もうとしているのは、医師と企業のコラボレーションの機会を増やすことです。実際に医師が守らなければならない規定は個人情報保護法以外にも例えば情報管理のガイドラインや、倫理規定、いわゆる倫理指針と呼ばれる医学研究における倫理に関するガイドラインなどたくさんあり、それらの規定をしっかりと理解していない企業が参入してきても相互理解はうまくはいきません。そこでどういった規定を守るべきなのかを経産省でも整理した上で、それらを理解してしっかり遵守し、医師にとって信頼できる事業者を見える化する取り組みを実施しようと考えています。
企業側が一方的に医療分野で守らなければいけない規則はしっかり守っていると言っても、医療側はその企業が一緒に事業に取り組むのに適切な企業なのかどうか判断することができません。なので、実際に規則を守っている事業者については、第三者が認証していることを明確にし、見える化しなければいけないと考えています。そのためには、どのような規則を守らなければいけないかを整理し、2018年度にしっかり取り組んでいく予定です。
それ以外にも、来年度以降に成功事例を創出していくために、実際に倫理委員会をどうやって通したらいいのか、共同研究にするときの権利関係をどう整理すれば良いかなどは、研究会の中で活発に議論されました。
佐藤 大介
―今、ヘルスケア産業課として注目するヘルスケアICTに関する技術というのは、例えば電子カルテのようなものではなく、オンライン診療のようなもっと患者さんに直接アプローチするようなものとして定義されているのでしょうか。
入江 奨
電子カルテまで含めてヘルスケアICTだとは思いますが、経産省として今は電子カルテのような業務効率化に役立つ技術というよりは、もっと人を健康にするような、患者さんに直接アプローチするサービスを重視しています。もちろん、新たな技術を診療に取り入れていこうと思ったら、当然病院のシステム自体もそれに合わせて変わっていかなければならない部分もあるので、裏表だと思います。
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佐藤 大介
―今回ヘルスケアICTのトピックになっているオンライン診療の面白さはそこだと思っていて、(今回のインタビューシリーズで)武藤真祐先生にお話しを聞いたときにおっしゃっていたのが、オンライン診療によって患者にアプローチする頻度が増えるということでした。オンライン診療というツールは、治療技術というよりも基盤的なものだと先生は位置付けていました。アプローチの頻度が増えることによって診療の効果も上がるというお考えです。
一方で他の方にお話しをうかがうと、情報技術が患者に直接アプローチすることを考えている方もいました。私としては、両方の意見を聞いてどちらが正解かは分かりませんが、きっとどちらにも価値があると思います。ただ、考え方によってそれぞれのアプローチをとっていけないのかなと本日の話を聞いていて、ますます思うようになりました。
入江 奨
経産省としてもオンライン診療は基盤だと考えています。どちらかというと武藤先生に近い考えです。オンライン診療という基盤を作り、しっかり進めていけるようになれば、診療をより効率的にすることができます。このことで診察の頻度も上がり、来院する必要がなくなれば患者さんにとっても医師にとっても良いことだと思います。このため、診療をもっと効率的にするためのモニタリングはどうあるべきかなどを考えていく上でオンライン診療はどちらかというと基盤だと思っています。
そこの基盤整備はすごく重要な政策ではありますが、厚労省の努力もあって方向性はある程度決まってきています。オンライン診療自体が認められたということは経産省にとってはすごくプラスで、そこから先は、どうやって効率化・普及していくのかを考えていくフェイズに移っていくと思います。
田村 桂一
―今回の診療報酬改定でオンライン診療に正式に報酬がつくようになり、オンライン診療がこれからさらに普及する流れが出来ることで、医療職の方々がICTに触れる機会が非常に増えると思うのですが、ICT導入の流れはさらに加速ができるとお考えですか。
入江 奨
今までもオンライン診療は行われていましたが、今回の診療報酬改定できちんと評価されることで、診療と診療の間のモニタリングによって、これまで使うことができなかったデータを使えるようになり、より治療の場が家庭に広がっていくという意味では大変プラスになるインフラ整備だと経産省は考えています。それによってオンライン診療を導入してみようという医師が増えてくれば、当然ICTが使えるようになってきます。
そもそもオンライン診療が導入されているのは、患者さんにとっても医師にとってもプラスなことがあるからです。そこが経産省として忘れないようにしているポイントです。ICTだから良いとか、オンライン診療でこういうことができるようになったから良いということではなく、本当に医師にとってプラスになっているのかを考えながらヘルスケアICTを広めていかなければならないと考えています。オンライン診療などのICTの医療への導入は、基本的には患者さんにとってプラスだと思います。しかし、医療は患者さんの命を守らなければならないという責任感のもとに医療サービスを提供しているので、そこは尊重しながら取り組んでいかなければならないと思っています。
田村 桂一
-経産省が行う政策的支援は、他の産業も同じようなスタンスで実施しているのでしょうか、それともヘルスケアは独特で、健康と経済振興の両方を大切にするとういうスタンスで取り組んでいるのでしょうか。
入江 奨
すべての産業が一様に同じかと言うと、必ずしもそうではないと思っています。ヘルスケア分野以外の産業は、利益がでる方向に持っていけば先行投資できるような余裕のある企業が積極的に動いたりする一方、やはりヘルスケアは患者さんの命を守らなければならないので、他産業と同じような動きにはなっていない点で異なり独特です。患者さんの安全をしっかり守らなくてはならないという前提が医療の中にはあり、その前提のもとに多くの医師が何人もの患者さんを診ている中で、それをどのように変えていくのかを考えなくてはなりません。そこはやはり簡単にはいかないと思います。
医療分野で新しいものがなかなか生まれてこないのは、それが本当に大丈夫なのかどうかを医師がきちんと責任を持たなくてはいけないからです。患者の安全や安心を担保しながら進めていかなければいけないので、厚労省としても厳しく規制していかなければいけないのです。もしこうした新しいことを何の規制もなく自由に実施することで、どんどん医療現場で人が亡くなっていくということが起きたらすごく不幸なので、そこは厚労省が責任をもってやってくれており、大変重要な役割だと思います。患者さんの同意をしっかり得て、また安全措置を万全にした上で新しいサービスを医療現場に取り入れるための検証をする手続きが医療分野では必ず必要になります。人の命の安全に関わるので、そのような検証を簡単にはできないのが医療分野の特徴だと思います。
田村 桂一
ーインタビューを通して、人を健康にするという目標が徹頭徹尾貫かれていて、その時々の表現が変わるだけで経産省の政策の基本はそこにあるということが分かりました。正直、経産省がこんなに人を健康にすることを一生懸命お考えになっていることには驚きました。
© Health and Global Policy Institute
入江 奨
そうですね、健康寿命を伸ばすとか生涯現役社会を目指すとか、その裏には社会保障の制度をサステイナブルにするためということも当然あります。しかし、それとは別に産業政策としても健康寿命を伸ばすっていうことは海外でもこれからどんどん必要になってくると思います。
特に東南アジアなどでは今後高齢社会に突入していく中で、日本のノウハウがどんどん海外に進出していくことにもなり得ると思うので、まずなんのためにこのサービスを提供しているのかというと、やはり人を健康にするためだというところを見失わずに、その上で何が必要かということを考えていかなければいけません。当然資金繰りをどうするかというのも必要ですが、人を健康にするということをきちんと最後の目標に据えた上で、そこに対してどうアプローチしていくかということにはいろんな選択肢があると思っています。
佐藤 大介
―経産省というとやはり産業育成という文脈が強く、海外展開となると厚労省ではなく経産省の管轄というイメージを持っています。ただヘルスケアICTの政策という観点からいくと、人を健康にするという目的は厚労省と経産省ともに共通する基本的価値観に思います。そこに関してはどうお考えでしょうか。
入江 奨
私はそれがないとビジネスにもならないと思います。人の満足度をとりあえず上げるだけのものであれば、それもそれでビジネスになると思いますが、それをヘルスケアのビジネスとは呼ばないと思います。ヘルスケアのビジネスというのは、いかに本当に人の健康に貢献しうるのか、そして健康寿命を伸ばすのかにきちんとフォーカスしないといけないと思っています。
佐藤 大介
―医療機器や医薬品が今そうであるように、情報技術もいかに人の健康に貢献しうるかというところにフォーカスするようになっていくのですね。
入江 奨
その通りです。
佐藤 大介
―政策、とくに産業推進という観点のお立場における考え方が今回のインタビューの主眼でした。読み手にとって聞きたいのは各省庁がどういったことを考えているかという公文書には出てこない部分だと思うので本日、お話いただいた経産省のヘルスケアICT産業に関する政策の核となる考え方を中心に聞けたのは非常に良かったです。ありがとうございました。